屋 根 裏 画 廊
            編集 : くれ はるお
BATILLE MEJIRO

** 目白バタイユのプリミティブ(始原的)な魂 **
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 一見してグロテスク、エロティック、これを悪趣味と判断して視界から排斥してしまおうとする人がいるかもしれないが、この作家は非常に自分自身に忠実であり、さらに対象から得たものを適確に分析、判断して表現しようとする極めて理性的な動向を示していることを、私は一連の作品に共通して見て取ることができる。

 自分自身に忠実であるということは世間一般ではエログロ、ナンセンスとされる内容であっても臆することなく堂々と主張しようとする精神であって、適確な分析、判断とは目の前にある現実の捉え方とそれを作品としてキャンバス上に具現するための処方には高度な理知の力が働いており、デフォルメされた裸体は単純、明快な形状となってキャンバス上に描き出されているということである。

 ところで芸術家目白バタイユが数々のデフォルメされた裸体を通して伝えようとするところは一体何であろうか? 確かにエロティック、グロテスクではあってもバタイユ作品に私はいわゆる低俗なエロティシズムを感じない。頭部のない屈曲した裸体、脚部の切断された裸体、ほぼ完璧に抽象化された背面から見た裸体に至っては、もはやエロスさえ感じられない。実は私にはこれらの作品に作者のプリミティブであろうとする魂とそこを原点とする芸術家目白バタイユの創造行為の過程(さらには彼が実践する創造行為の限りない可能性)が見えるのだ。

 美女の裸体を目の前にした時、芸術家はギリシャ神話のミューズを例えにその美しさを語ろうとするかもしれない。或いはプレイボーイ誌に掲載されるような美女を引き合いに出して語ろうとする場合もあるだろう。

 だがプリミティブな魂は固定概念に汚され歪められることのない生(なま)の現実を捉える。

 よりプリミティブであろうとする目白バタイユの魂にとって目の前の美女の裸体はもはや構造体としての骨格を内蔵する肉塊でしかなく、従ってそれを語る言葉は尋常な手段では見つからない。

 ここで芸術家目白バタイユは彼本来の個性を発揮して凶暴ともいえる強引さで表現しようとする。彼本来の個性とは彼の中にある野性味を帯びた理性と年月に培われ逞しく熟成した知性の融合体であって、これを大鉈を振るうように行使してキャンバス上に魂の感じるものを具現するのである。この様はとてつもなくダイナミックで、知識人と言われる借り物の知性で武装した人種を嘲笑しながら大鉈を振るう一見野蛮人のようだが極めて冷徹な芸術家或いは哲学者の姿を私は思い浮かべてしまう。

 このようにして仕上がった作品には創造の過程が刻印されており、作品を通してその作家を理解しようとするものはその瑞々しさ、斬新さの内側に目白バタイユの伝えようとするメッセージを探り当てることができるはずである。すなわち、作品としてキャンバス上に生成された形状と色彩は如何様にデフォルメされていても作家の魂が感じる現実であり、またその完成に至るまでの創作の過程そのものでもあり、この過程を通して、或いは逆行して、目白バタイユのあくまでもプリミティブであろうとする魂そのものに到達できることを。 (文:くれ はるお)

     
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
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